1 二紫会の誕生とその後

 二紫会は、同志社大学商学部の二村重博演習(通称二村ゼミ)の学生と卒業生の親睦会として、1977(昭和52)年に誕生しました。その背景には、多くの商学部のゼミが、学生時代だけでなく卒業後も同志社人として交流を継続し、そのための組織を作っていた、という商学部の伝統がありました。

 最初の二村ゼミの学生は、1973年度に商学部に入学し、2回生の1974年度より4回生まで3年間のゼミ生でした。最初のゼミ生が1977年の卒業の年に、「会員相互の親睦をはかることを目的」とし、「商学部二村演習卒業生、商学部二村演習在学生、その他総会で認められた者」を会員とし、「会員総会、名簿の発行、その他必要な」事業を行うという内容でこの会を発足させてくれました。(括弧内は「二紫会会則」より。)名称については、ゼミの時間に熱心な議論がなされて、二村の「二」と同志社のスクールカラーの「紫」をとって二紫会という名称が決まりました。

 また、会費や寄付金の徴収のために、郵便局と銀行に口座を作りました。銀行は、当時の就職が厳しい中で都市銀行に就職が決まったゼミ生を記念して、協和銀行(現在はりそな銀行)に口座を開きました。

 その後、188485年の二村のイギリスへの在外研究の期間を除いて、29号までの『二紫会経済学』の発行、28回の二紫会総会の開催、名簿の発行等の事業がなされてきましたが、二村が20063月に同志社大学を定年退職したことで、20061028日に第29回の二紫会総会が持たれ、今後の二紫会のあり方が相談されることになりました。

 二村ゼミの特徴は、経済学の基礎的な学習をした後、ゼミ生の研究テーマはゼミ生個人に任せ、経済の範囲で自由に研究テーマを決めさせて勉強させるということでした。これはゼミ生が望んだ方法でもあり、また自由の中にも「自治・自立」する、という新島精神に沿うものでした。他の特徴は、商学部の他のゼミに比べて、比較的女子学生が少ないゼミであったということでした。これは、二村の人間性の問題というよりは経済学という学問の性格によるものと考えられます。

 この間、会員数は738名に達しました。現在100名弱の消息の分からない会員がいますが、多くの会員とは直接、間接に「親睦をはかる」という目的を維持してきました。残念なのは、この間に6名の会員が事故や病気で亡くなったことです。改めて冥福を祈りたいと思います。

 以下では、『二紫会経済学』を中心とした各年度のゼミの内容と二紫会総会の内容を簡単に記しておきます。


[go jump] 1 二紫会の誕生とその後
        2 各年度のゼミと「二紫会経済学」
       3 二紫会総会の変遷

2 各年度のゼミと『二紫会経済学』

     第1〜5期生1期生2期生3期生4期生5期生
     第6〜10期生6期生7期生8期生9期生10期生
     第11〜15期生11期生12期生13期生14期生15期生
     第16〜20期生16期生17期生18期生19期生20期生
     第21〜25期生21期生22期生23期生24期生25期生
     第26〜29期生26期生27期生28期生29期生

1期生 1973年度入学 (33名、内女子ゼロ

 合宿は高野山で行い、ゼミ旅行は九州を回りました。オイルショックの後で就職の厳しい時代でした。101日解禁の就職協定も守られていて9月にゼミ旅行ができました。その後就職の時期が早まったため、日数をかけたゼミ旅行はこれが最初で最後になりました。

 『二紫会経済学1』は、インフレーションや石油問題についての論文が目立ちました。

2期生 1974年度入学 (21名 内女子ゼロ)

 合宿は高野山と同志社大学の小松学舎で行いました。

 『二紫会経済学2』は、インフレーションの問題が無くなり、技術進歩や成長の問題が目立つようになりました。日本経済が落ち着いてきたという状況を反映しています。

3期生 1975年度入学 (27名 内女子1

 合宿は小豆島の民宿と滋賀県の和迩浜で行いました。初めて女性がゼミ生になってくれた年度でもあります。

 『二紫会経済学3』は、公共経済学、ケインズ理論等の論文が目立つようになりました。

4期生 1976年度入学 (33名 内女子1名)

 合宿は三井寺と紀伊長島の紀州荘で行いました。このゼミからグループ学習の方法を取り入れました。

 『二紫会経済学4』は、ケインズ理論に加えてフリードマンを中心とするマネタリズムに関する論文が多くなりました。また、所得分配と社会保障の分野の論文もいくつかあり、日本経済が成熟してきたことを感じます。

5期生 1977年度入学 (27名 内女子2

 合宿は天橋立の山盛荘と和歌山県日高市の村崎荘で行いました。天橋立の合宿は二村の体調が悪く第3期生の二人に代理を頼みました。

 『二紫会経済学5』は、ケインジアン対マネタリズムの議論に加えて、移行期の日本経済や日米自動車摩擦の論文が目立ちます。この号から、自由に書ける場所が欲しいというゼミ生の要求で、「ひとこと」の欄ができました。

6期生 1978年度入学 (23名 内女子ゼロ)

 合宿は輪島のユースホステル長楽寺と飛騨高山の民宿むらさき旅館で行いました。

 『二紫会経済学6』は、石油危機以降の混迷する世界経済と比較的順調に発展している日本経済を反映した論文が目立ちます。金利自由化や財政の問題も取り上げられました。

7期生 1979年度入学 (30名 内女子4名)

 合宿は飛騨高山の民宿むらさき旅館と能登半島宇出津の奥能登ペンションで行いました。

 『二紫会経済学7』は、国債発行、インフレと失業、日米貿易摩擦等、純粋理論よりも実証と政策の観点からの論文が増えました。

8期生 1980年度入学 (24名 内女子1名)

 合宿は金沢の民宿・武家屋敷入田屋と国民宿舎近江舞子ロッジで行いました。

 『二紫会経済学8』は、急速な産業構造の変化を反映して、サービス経済化や政府の経済規制に関する論文が多くなりました。「ソフトノミックス」という言葉も出てきました。この号では第3期生の里麻君が「開放経済体系下の最適金融政策」という論文を投稿してくれました。

9期生 1981年度入学 (22名 内女子ゼロ)

 合宿は近江舞子ロッジで行いました。このゼミの4回生のとき、19848月に二村がイギリスのケンブリッジ大学に在外研究に出かけたため、留守中のゼミを栗栖弘典先生に代わってもらいました。

 『二紫会経済学9』は、サービス経済化の問題が引き継がれました。また、レーガノミックスや大量国債発行の問題等も登場してきました。栗栖先生による「あとがき」があります。第5期生の榎本君が「ソニーの海外戦略と設備投資行動におけるゼニス社との比較」という論文を投稿してくれました。二村も「ケンブリッジ便り」を載せました。

10期生 1982年度入学 (23名 内女子1名)

 合宿は輪島で、有志によるゼミ旅行は白浜で行いました。二村が在外研究のため、このゼミ生の3回生後期から4回生前期までは森田雅憲先生に担当をお願いしました。

 『二紫会経済学10』は、サービス産業の構造変化やサプライサイド・エコノミックス等の論文が目立ちます。この号には森田先生の「ひとこと」の欄があります。

11期生 1984年度入学 (14名 内女子ゼロ)

 合宿は城崎で行い、ゼミ旅行は有馬温泉に行きました。このゼミ生は、二村のイギリスでの在外研究中に志望してくれた諸君でした。在外研究のため1983年度入学のゼミ生はいないことになりました。

 『二紫会経済学11』は、これまでのソフト化・サービス化という問題意識を引き継ぎながらも、大幅な円高・ドル安の現実を反映する論文も見られました。

12期生 1985年度入学 (21名 内女子ゼロ

 合宿は金沢で行いました。1986年に田辺校地(現・京田辺校地)が開校され、第12期生から演習制度が234年の3年間の制度から34年の2年間の制度に変わりました。ゼミ旅行は有志がスキー旅行で赤倉へ行きましたが、二村は所用のため欠席しました。パソコンのキーボードを10本の指を使って打てるよう指導しました。情報化の波を感じる時代になっていました。4回生卒業のときは昭和から平成に移るときで、平成の意味は、『史記』の「五帝本紀」の「内平らかに外成る」と、『書経』の「大禹謨(タイウボ)」の「地平らかに天成る」からとったと説明されていました。

 『二紫会経済学12』は、円高と産業の空洞化や貿易摩擦の論文が目立ちましたが、ゲームの理論が始めて登場した号でした。

13期生 1986年度入学 (33名 内女子ゼロ)

 合宿は金沢で行いましたが、後、親睦を兼ねて城崎に行き、またゼミ旅行は白浜に行きました。久しぶりに2部のゼミ生ももった年度でした。この4回生の年は、東欧の民主化、ベルリンの壁の崩壊、ソ連のペレストロイカの模索と、世界が急激に動きだした年でもあります。

 『二紫会経済学13』は、情報化社会、M&A、アメリカの国際競争力低下等を通して産業構造の変化を見る論文が目立ちました。

14期生 1987年度入学 (22名 内女子1名)

 合宿は金沢の駅近くのよこ山旅館で行いました。この4回生のころから就職活動が早まり、前期は十分ゼミの時間が取れなくなってきました。4回生のときに、イラク軍のクウェート侵攻をきっかけに湾岸戦争が起こりました。湾岸戦争は卒業までには終わりましたが、ソ連の変化と共に世界の大きな変化を予測させました。

 『二紫会経済学14』は、技術変化に伴うサービス経済化、ネットワーク化という構造変化に加えて、ボーダレスを中心とする環境変化を取り扱う論文が目立ちました。

15期生 1988年度入学 (27名 内女子2名)

 合宿は和歌山県那智勝浦町の勝浦観光ホテルで行いました。このゼミ生の4回生のときには、ソ連邦が消滅しエリツィン大統領の名前が出てきました。日本ではバブル経済の崩壊の問題があり先行き不透明な時代になりました。そんな中、商学部ゼミ対抗ソフトボール大会では準優勝をし、記念の盾を研究室に飾ることができました。この快挙は、二村ゼミでは最初で最後でした。

 『二紫会経済学15』は、サービス経済化に加えて、企業の多角化、リストラクチュアリング、日米貿易摩擦の論文が目を引きます。

16期生 1989年度入学 (26名 内女子1名)

 合宿は白浜の民宿望海で行いました。そこに第12期生の加藤君が泊まっており、奇遇を感じました。ゼミ旅行は近江八幡国民休暇村へ行きました。バブル崩壊と円高を背景に厳しい経済情勢でしたが、就職に関しては同志社の実力を感じました。

 『二紫会経済学16』は、このような状況を背景に金融政策や産業構造変化に関する論文が目立ちました。

17期生 1990年度入学 (25名 内女子1名)

 合宿は能登千里浜国民休暇村で行いました。ゼミのクラスは活発で、ゼミのクラスで賛成と反対の二つのグループに分かれてディスカッションをするという方法をとりました。また、3回生との合同ゼミを持ち後輩に就職体験談をしてくれたのもこのゼミからでした。4回生のときは、自民党の長期政権に代わって細川内閣が誕生したり、サッカーのJリーグが誕生するという変化がありました。

 『二紫会経済学17』は、バブル経済と金融政策、技術革新と産業構造、労働時間短縮等の論文が目立ちました。この号には、クラスで議論したまとめが、「スポーツ編」、「経済編―円相場」、「経済編―経済成長率」に分けて掲載されています。

18期生 1991年度入学 (28名 内女子ゼロ)

 合宿は琵琶湖大橋の東畔のホテル・レークビワで行いました。前年のゼミにならい、クラスでいくつかの調査と議論をしました。4回生も終わろうとしていた1995117日午前546分に阪神・淡路大震災が起きました。バブル崩壊後の不況の中、自然の力を見せつけられた出来事でした。

 『二紫会経済学18』は、金融自由化、百貨店存亡論、円高と産業構造の論文が当時の経済を反映しています。この号には、クラスでの議論は、「次期日本シリーズの予想」、「現役の好きな女性タレント・ベスト5」、「次世代テレビゲーム予想」、「予想する空洞化問題」、「円レートの将来予想」に分けて載せています。ちなみに女性タレントの1位は鶴田真由、2位が同数3名で、かとうれいこ、大塚寧々、和久井映見、5位が内田有紀でした。

19期生 1992年度入学 (25名 内女子1名)

 合宿は城崎大会議館で行いました。このクラスは、半年間、テキストを決めて毎回小テストをするという方法をとりました。このクラスの就職シーズンは「超氷河期」と言われて心配しましたが、それぞれ個性にあった就職先を決め、同志社大学の底力を感じました。

 『二紫会経済学19』は、円高と産業の空洞化、価格破壊、不動産の証券化、テーマパーク、日本型経営システムの今後などの論文が当時の経済を反映しています。

20期生 1993年度入学 (27名 内女子1名)

 合宿は金沢のルネかなざわで行いました。第20期生は、田辺キャンパスで2回生後期からゼミが始まるという制度になって初めてのゼミ生でした。大学でインターネットの整備ができてきたのでe−メールの活用を取り入れてみましたが、まだうまく機能しませんでした。また、少数ですが、就職シーズンに入っても4回生の段階で就職を決めない学生が増えてきているのもここ数年の現象でした。

 『二紫会経済学20』は、中国経済に関する論文が6編あり、中国を中心とするアジア経済に関心を持つゼミ生が多くいました。クラスで議論した日本経済の将来予想については、「現役の見るこれからの日本経済」というタイトルで載せています。

21期生 1994年度入学 (9名 内女子1名)

 合宿は城崎で行いました。このゼミは、小規模で家族的な雰囲気を維持できました。4回生のときは、アジアの経済危機とそれに続く三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行の金融機関の破綻が続く変化の時代でした。

 『二紫会経済学21』は、ゲーム理論やビッグバン等多様な問題が取り上げられました。この号からは、印刷所を共栄社から(株)エッグに代え表紙の装丁も変えて装いを新たにしました。また、前年の「二紫会二十周年記念報告」で、写真と挨拶の要旨を載せました。

22期生 1995年度入学 (14名 内女子ゼロ)

 合宿は和歌山県串本の浦島ハーバーホテルで行いました。最初18名で出発しましたが、4名が「脱落」しました。初めての経験で若い世代の「グループ」に所属する態度の変化を感じました。同志社大学は、このゼミ生の4回生から、これまでの1年間を通じる通年制を止めて、春学期と秋学期に別れるセメスター制に変わりました。就職状況もインターネットの情報が多くなり、エントリーシートを用いる企業も増え始めました。

 『二紫会経済学22』は、マーケティングの問題、自動車業界、廃棄物とリサイクルの論文が目立ちました。

23期生 1996年度入学 (29名 内女子2名)

 合宿は白浜で行いました。

 『二紫会経済学23』は、ゲーム理論、コンビニエンス・ストアー、個別産業に関する論文が多くなり、若い世代の関心のシフトを感じました。二村が同志社大学の入試センター所長をしており、出題ミスで記者会見をしたりして忙しくしているうちに、この号の編集発行が1年遅れてしまい迷惑をかけました。発行が遅れたことと、『二紫会名簿』を作成したことが、後の二紫会会計の赤字を生み出す結果になりました。

24期生 1997年度入学 (34名 内女子4名)

 合宿は近江舞子のレイクスコレー喜八で行いました。携帯電話の爆発的な普及と電子メールの普及もこの世代で定着し始めたのを感じました。用事のあるゼミ生には携帯電話で、欠席届は電子メールでという便利な時代になりました。社会も大学も「志望動機」と「自己アピール」を重視して、個性ある人物に熱い目が向きつつあるように変わってきた、と感じました。

 『二紫会経済学24』は、このような時代を反映して、電子マネー、インターネット広告、年金制度などの論文が目立ちました。

25期生 1998年度入学 (30名 内女子3名)

 合宿は鈴鹿サーキット・フラワーガーデンホテルで行いました。この学年から秋学期の4回生ゼミは2講時連続というように制度が変わりました。つまり、春学期が2単位、秋学期が単位で合計単位になったわけです。4回生のときに、「改革なくして成長なし」という言葉とともに小泉首相が登場してきました。

 『二紫会経済学25』は、個人の合理的行動、通信産業、ロボット産業等の論文が目を引きました。

26期生 1999年度入学 (27名 内女子3名)

 合宿は鳥羽市相差町のみち潮で行いました。前年から始まった4回生秋学期の2時間をどう使うかで、ゼミ生の多数の要望もあり1時間は統計学の講義をしてみましたが、必ずしも成功とはいえないものでした。

 『二紫会経済学26』は、知的所有権、ITと卸売業、ITとデジタルデバイド、民間非営利団体、ODA等のタイトルの用語が示すように、低迷している日本経済は情報技術の発展の中でどのように進んだらよいかということや、またそれとの関係で非市場組織の経済問題に関心を持つ論文が多く見られました。

27期生 2000年度入学 (22名 内女子5名)

 合宿は同志社リトリートセンターで行いました。過去には、御所に行ってゼミ生に同志社の歌の「歌唱指導」をしましたが、この数年はその代わり新島襄の話をすることにしました。特にこのゼミ生には元治元年(1864年)の話をしました。6月の新撰組の池田屋襲撃事件、7月の禁門の変(蛤御門の変)、同じ頃新島襄が箱立から海外へ脱出、これが明治になって同志社と結びつくという内容です。ところで、このゼミ生の2回生のとき2001911日に、同時多発テロがアメリカを襲いました。4回生の5月にはイラクとの戦争終結宣言、3回生の20029月には日朝ピョンヤン宣言と、世界的な変動の時代を迎えました。

 『二紫会経済学27』は、経済の低迷を反映してデフレの問題の論文が目立つことと、牛丼、カラオケ、カーナビ等の身近な問題に関心をもつ論文が増えました。

28期生 2001年度入学 (33名 内女子1名)

 合宿は名古屋と同志社リトリートセンターで行いました。このゼミ生は第2志望の学生を全部受け入れたら40名以上になってしまいました(途中脱落者があり最終は33名)。

責任を感じて、「自由クラス」と「強制クラス」(学生は「遊びクラス」と「勉強クラス」と言っていましたが)に分けて指導しました。名古屋観光が自由クラス、同志社リトリートセンターが強制クラスです。

 『二紫会経済学28』は、このような事情を反映して論文の内容も、映画、パチンコ、サッカーから中国、インド、韓国、スロヴェニアの経済に至るまで多様な構成になりました。

29期生 2002年度入学 (30名 内女子8名)

 最後のゼミの合宿は同志社リトリートセンターで行いました。このゼミは二村の最後のゼミになるので15名くらいの少数精鋭ゼミにしようと思っていました。ところが、いざ面接をすると落とす勇気がなく、結局大所帯になりました。その代わり、全員にパワーポイントでの報告を義務づけました。厳しくしたいという気持ちが伝わったのか、皆よく応えてくれ、満足のいくゼミになりました。特に産業構造変化を中心にゼミのテーマを設定し、理論と実証の両面からこの問題に取り組んでみました。

 『二紫会経済学29(最終号)』は、このようなゼミの方針を反映して、産業構造変化に対する論文が目立ちます。その他の個別産業、技術革新、レジャー産業、少子高齢化、労働市場等の論文も産業構造の議論をふまえて書かれたものです。

 最後に、最終号の「はじめに」でも書いた新島襄の言葉をもう一度書いておきます。


   “Go, go, go in peace. Be strong!”
       “Mysterious Hand will guide you!”



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       2 各年度のゼミと「二紫会経済学」
       3 二紫会総会の変遷

3 二紫会総会の変遷

1977年に二紫会が誕生してから、毎年、二紫会総会が開催されてきました。議題は、決算報告の承認、幹事の承認、二紫会の運営に関すること等でした。その歴史を簡単に振り返っておきます。

2回総会(1978年)から第5回総会(1981年)までは、祇園下河原の上海祇園店で開催されました。会費は3,000円で(第5回は3,500円)、各回に30名程の出席者がありました。

6回総会(1982年)は京都駅正面の京都タワーホテルで、第7回総会(1983年)は京都市役所前の本能寺会館で、第8回総会(1984年)は円山公園内の浜乃家で、いずれも会費5,000円で開催され、40から50名の出席がありました。また、会員の強い希望があり、第7回総会以降は、総会の日の16時から17時まで、二村は研究室にいるということにしました。

その後、二村がイギリスへの在外研究のために1985年、1986年は開催されませんでした。

それまでの総会案内人は二村だけでしたが、第9回総会(1987年)からは、幹事代表の上田俊男君も加わりました。このころから、二紫会の組織も京都で仕事をしている上田俊男君(第1期生)、佐藤裕之君(第3期生)、後に廣瀬孝幸君(第5期生)、福本雅之君(第13期生)も参加して世話人会の体制ができてきました。総会に続く懇親会は学生時代のコンパの雰囲気を残したいという幹事の強い希望で、第20回記念総会を除けば、その後の総会は、円山公園内のいふじで開催されてきました。会費は6,000円で、各回の出席者は20から50名でした。

20回記念総会は、1997622日(日)に、京都駅南側の新都ホテルで開催されました。会費は8,000円(配偶者同伴の場合は12,000円)で、会員の家族も含めて89名の出席があり盛大な総会が催されました。

1回から第22回総会(1999年)までは、現役生の就職の援助ができるかもしれないという意味もあり、5月下旬から7月上旬に開催されましたが、就職の時期も早まって意味をなさなくなったので、第23回総会(2000年)からは、秋にしようということになりました。

23回総会は、二村の還暦の年と重なり、赤いちゃんちゃんこや帽子を贈られて祝ってもらいました。「還暦」、現在の高齢化社会では死語になったかと思っていましたが、二紫会の皆さんの厚意に感激しました。ちゃんちゃんこと帽子は大事に保管しています。二紫会の会員の皆さんの還暦のときに活用しようと楽しみにしていますが?

幹事の廣瀬孝幸君が、二紫会のホームページを立ち上げてくれましたので、以上、大急ぎで「二紫会のあゆみ」をまとめてみました。思い違いをしているところや、載せ忘れていることもあると思います。会員の皆さんの指摘をもらいながら良いものにしていきたいと思っています。

                      (文責 二村 重博
                        [2006年8月第一版]

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